Films
directed by Jonas Akerlund
2003年3月4日USA  limited 公開
by  Violette The Drunk


ビリーコーガン参加の映画『SPUN』(ジョナス・アカーランド監督 5月渋谷シネマソサエティにて公開)を見に行ってきた。


ドラッグ、セックス、ロックンロールなダメ系ロードムービーなんだが、見た後どうも気分が晴れないというか、スカッとしない。冷たいかもしれないけど、「だから?」って思ってしまった。なんとなくつくりかたも荒い、なんで?どうして?っていう部分が多くある。でも、ドラックキメキメ映画だから、この理解不能なところは、キメテル人にしかわからんのだろう…と消極的に理解をさせられてしまう。斬新な映像テクニックも、妙にがんばってみました…、カッコいいからちょこっと入れてみました、おもしろいからぽろっといれてみましたという風に受け取れてしまった。作ってる人もキメキメなんじゃないの、いや、ドラッグ映画だからこれも計算?こういう一貫性のなさというか、唐突なのがいいのか?映画そのものがドラッグアディクトなのか??…って、これって私の心がササクレテル?




舞台はアメリカ西海岸。主人公は主体性のないドラッグ中毒の男、ロス(ジェイソン・シュワルツマン)。この男ほんとにダメダメ男でクスリにつられて、いろんなことに巻き込まれていく。なじみの売人スパイダー・マイク(ジョン・レグイザモ)は売る予定のドラックをなくしてしまい、パニック状態。キメたいロスは、そこに同席していたドラックの元締めの女・ニッキー(ブリタニー・マフィー)に都合してもらうことにする。ニッキーがロスに目をつけたのは、彼が車をもってるから。ここから、彼の果てしないアッシー人生が始まる。


ニッキーの男・コック(ミッキー・ローク)は、屈強な男。白いウェスタンブーツと白いハット、穴だらけのジーンズがトレードマーク。ニッキーとコックは町外れのモーテルに住んでいて、そこで市販の眠気をとる薬からドラックを精製している。ロスは、薬を餌にされて、彼らのアッシーになっていく。そして、彼らのペースに巻き込まれ、セックスの途中でも呼び出されれば途中でやめて車で駆けつける…。


ロスを演じているジェイソン・シュワルツマンだが、この人は元ファントム・プラネットのドラマー。なんと、この映画に出演するためにバンドは辞めてしまった。この彼は、ボロボロのボルボにのってアッシー君をつとめるんだが、どうも印象に残らない。


ブリタニー・マフィーは、完璧なスタイルを見せ付ける衣装で、悩ましげに、物欲しげに歩き回る。グリーン色の飼い犬が病気になったときには、おしりが半分は見えそうなホットパンツ(いまどき、ホットパンツなんていわないか…)で、動物病院に駆け込む。ここのお医者さんが、なんとビリー・コーガン…あとで、クレジット見るまで気がつかなかったけど。


ミッキー・ロークはこの映画で新しい自分を発見した。彼の代名詞となっている『ナイン・ハーフ』の美青年も、猫パンチで一斉風靡したあの彼もここにはいない。親父、カウボーイ崩れの薬精製人だ。女はストリップバーで働かせ、自分はコールガールを呼ぶ。そして、ポルノショップでは理想の女について語る。「胸は大きく、おしりは小さく」


驚かされたのが、映画『あの頃ペニー・レーンと』で、まっすぐなロック・ライターを演じたパトリック・フュジェット。なんでかわからないけど、顔は吹き出物だらけで、ゲーム大好き。最後には男性のシンボルを銃で撃ちぬかれる始末。彼も、あの役の印象から抜け出たかったのね…。


最高なのが主人公のロスの部屋の隣に住むレズビアンを演じる、デボラ・ハリーだったりする。彼女はロスが帰ってくるたびに戸をあけて彼を見る。彼と彼の連れ込んだストリッパーとの情事に耳を傾ける。最後には、チャットラインでテレフォンセックスまでもしてしまう。彼女の演技には表情の変化がない。もちろん演出だろうが、それがますますかっこいい。彼女は共同プロデューサーとしても名を連ねる。




さて、音楽である。ここ2−3年の映画音楽というのはずいぶん変わったような気がする。もちろん、音楽ベースの映画の作品が増えているせいもあるかもしれないが、サントラの定義が変わった気がする。この映画のなかできかれるのは、オジー・オズボーンだったり、T−Rexだったり、モトリー・クルーだったりする。ファントム・プラネットもある。ビリー・コーガンの作った曲もふんだんに聞ける。映画をみただけなので、どれがどのタイトルなのかわからないんだけれど、やっぱり彼の音っていうのはすぐわかる。そんなにスマパンファンじゃなくても…。


セックス、ドラック、ロックンロールな映画はずっと好きだったはず。自分の住んでいる世界とはまったく違う世界を見させてくれると感じていたから。でも、冒頭に書いたように自分が楽しめなくなっているのは年をとったからなのだろうか。資料として配られたプレスには、音楽評論家が「いまどきセックス、ドラック、ロックンロールじゃないだろ、ちゃんと生きろ」って書きつつ、このどうしようもない輩の本当の気持ちをビリーが歌で表現しているって書いてある。


でも、そんなメッセージなんだろうか。そうだったとしても日本のオーディエンスにその意味を伝えられるの?だって、すでに私はその思いを共有できない。それに、映画の監督が実際にそこまで考えてると思えない。カッコいいよね…っていうのをどこかに匂わせたいに違いない。私、精神状態がササクレテル?


悲しいから、つらいからドラッグに走ったりするのって、甘えじゃない?何かこころの隙間を埋めるためにドラッグがあった…という考え方、厳しいかもしれないけど私はこれをストレートに受け取れない。


評価としては一度みれば十分だなという作品。ヴィンセント・ギャロみたいに意味はなくても、景色がきれいとかそういうものもなかったから。でも、音楽は良い。だから、一度見といてもいいかな。


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