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「ニック・カサベテスのことは知らなかったけれど、彼がもし‘あの’ファミリーから来ているのなら大丈夫だろうと思った」この映画で老デュークを演じたジェームズ・ガーナーの言葉である。‘あの’ファミリー、すなわち父ジョン・カサベテス(日本では『グロリア』で知られる監督/俳優)と母ジーナ・ローランズ(『グロリア』で主役を演じ、常にカサベテス映画の主演女優であった)である。
今私の手元にはSwitchという雑誌がある。1990年1月発行のスペシャル・イシュー、ジョン・カサベテス特集である。前年2月3日に59歳で没した彼の生前の姿を追い、ゆかりの映画人にインタヴューしながら映画監督としての彼の在り方、スタイル、その生き方を共感と敬愛をこめて描いている。「ニューヨークインディーズの父」とも称され、表層の繁栄と暗部の荒廃を繊細でしかも残酷な眼差しを持って描き続けた稀有な監督である。ニックはその息子である。ガーナーならずとも期待しようというものだ。
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介護施設で暮らす認知症の老婦人アリー(ジーナ・ローランズ)。症状がすすんだ彼女にはもはや夫や子供・孫を認識することもできなくなっていた。ラブ・ストーリーを読んで聞かせる陽気な老人デュークが自分の夫ノア(ジェームズ・ガーナー)であること、ノートに書かれた若いカップルの話は婦人自らが書いた自分と夫の話であることも思い出せなくなっていた。しかし読み聞かせの間のほんの短い時間、ふとしたことで記憶がよみがえるときがある。ノアはそれを願って今日もストーリーを読み続ける。
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1940年代、サウス・カロライナの田舎町シーブルックスにアリー・ハミルトン(レイチェル・マクダームス・さとう玉緒似のカナダ人女優)という金持ちの娘が夏休みを過ごしに家族とやってくる。アッパー・クラスの令嬢ながら、明るくあけっぴろげな彼女に地元の木材加工場で働くノア(ライアン・ゴスリング)はひとめぼれ。アリーも率直でちょっと変わったノアに惹かれ、何度かデートをするうちお互い熱烈な恋に落ちる。夏の恋ならと多めに見ていたアリーの両親だったが、2人が本気なのを知るとさっそく引き離しにかかる。結局アリーはチャールストンへ連れ戻され、遠方の名門女子大に進学する。ノアが一年間毎日書いた手紙もアリーの母アン(ジョアン・アレン)がポストから抜き取ってアリーには届かないようにしていた。やがて戦争が始まり、ノアは志願する。任期を終えた彼は父が家を売って作ってくれたお金をもとに、古い農場を買い取り、そこをリフォームして住み始めた。父も死に、孤独なノアはなぐさめにある戦争未亡人と逢引きしていた。一方アリーは金持ちのロンと婚約し結婚式を来週に控えていた。しかし新聞でノアの写真を見、矢も立てもたまらず彼に会いに行く。2人の恋は再燃、アリーは結婚式を中止しノアのもとへ走るか、選択をせまられる。
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この若い2人のロマンス、これはこれで楽しめた。まさにハーレクイン・ロマンス、青春の日の恋である。やがて大人になって再会した2人が本当にお互いを必要とし、離れがたく結びつく、というロマンスの王道、いまどき珍しいほどの正攻法である。それを使い古された、何度も見た、というのはオトナの言い草で、中学生から高校生くらいなら(R指定はあるが)リアル・タイムで共感できるものがあるだろう。
オトナとしては、アリーの恋に強弁に反対する母アンが実は若いころ身分違いの恋をして駆け落ちしようとしたところを連れ戻されたことがある、と告白するシーンがよかった。アリーを車に乗せ、昔の男が働く工場に連れて行くのだ。当時の恋人は今、腹の出た中年でもう面影もないけれど、あのころは本当に素敵だった。彼女は今でも時々物陰からその男の姿を見に来るという。しかし彼女は車を降りて再び男に「ハーイ」と笑いかけることはしない、いや、できないのだ。2人の距離は20メートルと離れていないけれど、2人を隔てるクラスやお金、地位や因習が越えがたくそこにある。それでも彼女は今でもその男を思っていて、若い日の恋をせつなく思い出すのだ、ということが彼女の涙でわかる。高飛車な金持ちマダムに一気に共感を覚えるシーンだ。演じるのはジョアン・アレン。『ボーン・スプレマシー』でCIAエージェントを演じたクールな女優である。
そしてノアの父にサム・シェパード。言葉のなかなか出なかった幼いノアに詩集を朗読させそれを克服させた。ノアの一風変わった雰囲気は父の影響だとわかる。
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アリーとノアは結ばれ、40年の歳月が流れた。孫にも恵まれ、穏やかな老後を送るはずだった。しかしアリーに痴呆の兆候が現れ、やがて介護施設で暮らすようになる。ノア自身も3度の心臓発作に襲われており、もし自分が先に死んだら妻はどうなるのだろうという不安にさいなまれていただろう。2人で一緒に行けたら・・・という思いがあったかもしれない。
しかし、それにしてもあのラストは「それはないよ」であった。一つベッドに入り、お互いの手を握り合い、眠りにつく。そして朝、ナースが来てみると、2人は眠るように逝っていた。というのである。これは甘い。甘すぎる。おとぎ話になってしまった。これは逃げだと思う。病状から察するにおそらくノアのほうが先に行くだろう。その後アリーがどうなるのか、描くのがつらくて逃げたとしか思えない。悲しい話にはしたくなかったのだろう。しかしそこをこそ描いて欲しかったのに。この題材をニック・カサベテスがどう描くのか、しかも実の母親がその認知症患者を演じるのである。ぎりぎりの心理状態を再現するのではないか、と思っていた。が、映画は極力それを避けていた。ここからが本番、というときにあっさり終了してしまったのである。比重はあくまで若いカップルのロマンスにあり、年を取り肉体は衰え記憶は薄れても変わらない愛がある、ということなのだ。見終わってちょっとがっかりした。見当違いの期待はするものじゃない。
もうひとつの読み違いはキャストだ。ジェームズ・ガーナー。悪くはないのだけれど、どうも大味なのだ。どうせならサム・シェパードがやるべきだった。寡黙で一見冷ややかな彼がアリーに示すであろう繊細な愛情が深い情感を漂わせただろうに。まだ少し若すぎたのだろうか。
映像は文句なく美しい。
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